日曜日, 10月 16, 2016

告別式と9と悲しみ

当初の予定では告別式は朝9時からだったのだけど、あのキャンセル騒ぎで、会場が変わり、時間も12時からに変更になっていた。
親族は11時に集合ではあったけど、朝9時からなら、さらにその前の8時に集合なわけで、それだったらかなりきつかったと思う。

お通夜ではかなり遅い時間まで飲んでいたから、みんな睡眠不足だろうし、飲みすぎた人はその上二日酔いだったはずだから。

旦那の車で、会場には集合時間ぎりぎりに到着した。

会場はこじんまりしていて、お花も十分だったし、人数的にもちょうど良かった。
思っていたものよりかなり良い会場だった。

一応、飾るお花は、喪主から、私達娘から、孫一同、親戚一同などからだったが、前日旦那の提案で、旦那のお父さん、二人のお姉さん、旦那本人からのお花を出してもらった事が幸いだった。
それが無かったらちょっと淋しかったかも。

その上、私の勤め先から三つも大きめのお花が届いていて、それも功を奏した。
弔電はあると思うけど、お花は無理かもと言われていたのでかなり驚いた。
パートながら組合費は取られているので、当然ともいえるけど、元々の所属会社からと出向先の会社から、そして組合からと三つも送られてすごく嬉しかった。

弔電も5通も。
事務的なんだろうけど、重なった弔電がたくさん置かれている光景は身内として嬉しいものだ。
有難いと思った。
これからも頑張って働かなきゃと思う。

そんなお花に囲まれ、お坊さんのお経が響く中、最後に棺の中にみんなでお花をたくさん入れて、棺の窓を閉じる・・・。
さようなら。

火葬場に運ばれ、ついに火葬になったのだけど、燃やす箇所の番号が9番だったので、たまたまではあるだろうけど、びっくりした。

10月9日に亡くなり、火葬の番号が9番、誕生日が12月9日と何故だか9が続く。

苦労続きの母だったけど、最後まで9が付きまとう。

火葬された直後、娘である私達三姉妹だけが呼ばれ、寝た状態で燃やされたままの骨を確認する。
かなりリアルだった。
もう母の肉体は無いのだと確信した。
本当に本当にこれで、お別れだ。

その後、私達含め親戚たち全員で骨壷に長い箸で骨を入れていき、その後、担当者が手順よく全ての骨を骨壷に入れた。

81歳という年齢で入れ歯でもなく、燃やされてもこのように歯が残っている方は珍しいとか。
その上、骨がかなりしっかりしていて、骨壷いっぱいになる方もかなり珍しいのだとか。
喉仏もしっかりしていたし・・・。
やっぱり、死ぬような段階ではなかったと思う。
もっともっと長生きできたはずだ。

母だって、まさかこれで二度と家に帰れないなどと思ってもみなかったと思うと悲しくて悔しくて。

悔やんでも悔やみきれない母の死。
悔やんでももう戻らない。

告別式が終わり、母の骨と共に姉の家に戻った。
姉妹のわだかまりはなくなっていた。

これから、お墓を探さなければならない。

母の故郷に母が入れるお墓はあるようだが、いかんせん遠すぎる。
近い方が、いつでもお参りに行けるのだから、近いところが見つかると良いな。

今時はどこのお墓も入れてもらうには抽選なのだと言うから、大変そうだ。
運よく見つかると良いけど。
私達も母と同様、くじ運が悪いからどうだろう・・・。

ふとした瞬間に母の姿や表情が目に浮かぶ。
これから、悲しみがあとからあとから波の様に追って来るのだろうな。

毎朝、出勤時にイヤホンで音楽を聞いていたけれど、しばらくは聞けそうにない。


お通夜

納棺された翌日、姉の自宅マンションでのお通夜に旦那と長男、長女を連れて電車で向かった。

夕暮れの中、最寄駅からそのマンションまでの長い道のりをとぼとぼ歩く。
かなりの距離だ。
うっすらと暗い夜空に果てしなく長い長い龍のようなうろこ雲が流れていた。

足腰が弱っていた母はこの長い道のりを何かの度にとぼとぼと歩いていたのだろうなー。

旦那は何度か我が家に遊びに来た母を車で送ったりしていたので、姉の家には行った事があるが私が行くのは初めてだった。

ピンポーン・・・。

「どうぞ。」との姉の声。
インターフォン越しにわいわいがやがやと親戚たちのにぎやかな声が漏れ聞こえてきた。

緊張の面持ちの中、部屋に入る。

リビングルームに母の兄弟姉妹の子供達、要するにいとこたちとその子供達がたくさんすでに集まっていた。

この親戚たちと会うのも母の一番上の兄のお葬式でだったか、かなり久々だった。

「お前も老けたなー。」と言われ、月日の流れを感じる。
そのいとこたちもみんな老けていた。

リビングルームの角の方に棺が置かれていて、中を覗き込む。
その中の母の顔は、病院にお見舞いに行った時のやせ細ってしわしわだった顔とは全く違い、綺麗にしわが伸ばされ、若々しくなっていた。

ちょっと、伸ばし過ぎで、普段の母の表情とは少し違っていたけれど、とても美しい顔になっていた。
やっぱり、連れて帰ってきて正解だったし、納棺師に綺麗にしてもらって本当に良かった。

宗教心もないし、一回のお布施が15万円だと言うので、お通夜にお坊さんは呼ばず、みんなで母の話をして泣いたり笑ったりした。
それで良いと思った。
母が近くで笑っている様な気がした。
母からすると娘達、かわいい孫達、可愛がった甥や姪、その子供たちの賑やかな声に囲まれて良かったのだと・・・。

みんなべろんべろんに酔っ払い、母のお通夜が終わった。

納棺までの話

母が9日の早朝に亡くなり、駆けつけた後、担当医がやってきて、
「何が原因なのかわからないので、死亡診断書には老衰と書いて良いでしょうか?」と言う。

老衰?

入院する二日前までシルバー人材センターでのお掃除の仕事をしていたと言う母。
このところリウマチっぽかったと言う母がめずらしく痛みを訴えたので、通院していた病院に行ってみたのが始まりだった。

入院するほどでもないがどうしますか?と最初は言われたらしいが、早くその痛みが治ればと軽い気持ちで姉が入院させたらしい。
しかし、その翌日の漢方薬の投与から容体が激変した。
体中に赤い発疹が出て、激痛が体中に走り、口の中の粘膜はただれ、口の中が血だらけになり、血が固まって口が開かないほどだったと言う。
舌の先が真っ白になり、何も口から受け付けられなくなり・・・。
3週間、何も食べられないまま、のたうちまわり、激痛のあまり叫びながら、死亡した。

我慢強い性格がたたって、看護師の扱いも悪く、医師の扱いも最悪だった。
最悪の看護師たち、最悪の医師たち、最悪の病院。
軽視され・・・、運が悪かった・・・。
でも、それで、人間って死んでしまうのだ。
私も少しの間だったが救急救命センターに勤めていたが、看護師や医師とは本当に恐ろしい職業だなと改めて思う。


霊安室に運ばれる前、私がたまたま持っていたファンデーションや口紅で死に化粧をして・・・。
そしてその後、病院の地下に常駐している葬儀屋と打ち合わせをする事に・・・。

その日は葬儀屋に言われるままに割安だと言う区の会場で、通夜と告別式をやる事に決めた。

お通夜までの間は通常、保存のために病院の地下にある霊安室から冷蔵庫の様な所に移されて保管されると言う。
私は保存状態の為にもかわいそうだけどそれで仕方がないと主張したのだけど、妹がどうしても住んでいた自宅マンションに連れ帰りたいと言う。

自宅に入る時は大丈夫だけれど、棺に入れて自宅を出る時に2メートルある棺がエレベーターに入らなければ、階段を使うしかないそうだけど・・・。
まだ、マンションが2階だから、葬儀屋の二人と誰かでおろす事は可能だと言われ・・・。

妹は末っ子で母とは一番仲が良かったし、入院中も毎日お見舞いに行っていたわけで、妹の言う通り、自宅に移す事に決めた。

その夜、姉が通夜は自宅でやりたいので、通夜だけキャンセルで、告別式はそのままで・・・とその葬儀屋の担当者に電話で伝えていたはずだったのだけど・・・。

翌日の11時に最終打ち合わせで、最終的な事を詰めようとしていた私達だったが・・・。

なんか、話がかみ合わない???

かみ合わないまま、話していると、
「えっ?両日ともキャンセルじゃなかったんですか?」と葬儀屋のまさかのお言葉。

「はっ?」びっくりして一瞬絶句する姉。
「昨日も申し上げた通り、通夜は自宅でやり、告別式は昨日の打ち合わせ通りでお願いしたいと言いましたよね。」
「要は、通夜の一日をキャンセルするだけで、告別式は予約したいと言う事で・・・。」

「え~っっっ?もうキャンセルしちゃったので・・・・。」と言いながら慌てふためく担当者・・・。

電話で確かめていたが、申し訳なさそうに、
「もう、他の予約が入っているので、無理です。通夜と告別式は通常二日セットなので、キャンセルと言う事はどちらもだと思いまして・・・。
そんな話、聞いてないし・・・、最初からセットだって言えよなー。

そんなこんなで、改めて式場を探してもらい、私の職場にも式場の変更を慌ててメールで伝えた。

母の死亡の当日と翌日まで霊安室に置いておき、その翌日午後に自宅マンションに運んだ。
到着後の翌日、葬儀屋がドライアイスを換えに来てくれて、その翌日に納棺師に綺麗にしてもらい納棺。

私は仕事で行かれなかったけれど、納棺の際、お気に入りの衣類や写真などを入れて納めたと妹からメールが入った。
私があげたラベンダーのアルパカのセーターも入れてもらった。

いろいろな事でずっと疎遠になっていた妹とのメールのやり取りが始まった・・・。