月曜日, 10月 31, 2016

ハロウィン

今日は、旦那の誕生日でもあり、ハロウインの日でもあり・・・。

ハロウインと言えば、小さい頃にスヌーピーのアニメだかまんが本で初めて知った。
チャーリーブラウンやルーシー達が、仮装して近所の家々にお菓子を貰いに行く・・・。

そして、もっとはっきりそれを認識したのは、高校一年生の時・・・。
私が通っていた高校は、ミッションスクールだったせいか英語の先生がイギリスかアメリカ人の先生が多かった。
その中でも超恐い大柄な女性の先生がいて、少しでもこそこそ話をしようものなら、
「クワイアト!」と大声で叱られたものだ。

なので、みんな、いつもびくびくしていたのだけど・・・。
ある日の事、その先生が教室に入るや否や何かを配りだし、まさか小テスト?と緊張していると・・・。
なぜかそれはスヌーピーのイラストのカードで、いつになく急に明るい笑顔と大声で、
「今日は、何の日か知ってる?今日はハロウインの日よ。」とかなんとか色々と英語で語り始めた。

そして、自分が子供の頃の仮装した写真も複数枚配り、ハロウインって言うのはこんな感じなんだよと教えてくれた。

今でもその光景は脳に焼き付いている。

何となく知ってはいたけど、ハロウインがどんな行事なのかってのを認識した日でもあった。
その日から、もう、四十年近くが経ってしまったかぁ。。。

百貨店やらスーパーなどのディスプレイの仕事を二十年近くしていた中で、ハロウインと言うものが中々根づかず、
「日本人にはねー。」などとすっかり諦めていたのに、ここ数年、仮装すると言う行動が相まって、にわかにクローズアップされてきた。

びっくりだ。
あれだけ長い間、一般人に見向きもされなかったハロウインが・・・。

今ではそんなグッズでいっぱいだ。

渋谷は仮装した若者であふれ、バレンタインデーをしのぐほどの盛況ぶりなのだとか。
ほんとびっくりとしか言いようがない。


もう少し経つとクリスマス気分で一色になる。

あーぁ、もうクリスマスかぁ。
今年もあと二カ月しかない。
ほんとにほんとにあっという間だ。

金曜日, 10月 28, 2016

後悔先にたたずなのだ

母が亡くなり、聞けなかった音楽もどうにか聞けるようになったものの・・・。
やっぱりふと思い出して涙があふれる。

どうして人って死ぬのだろう。
どうして母は突然死ななければならなかったのだろう。

死に方がまたひどい。
激痛でのたうちまわりながら死んでいくなんて、かわそうでかわいそうで。
どうしても割り切れない思いが残る。
ずっと苦労続きで、つらい仕事ばかり頑張ってた。
やっとこの十数年は幸せそうだったのに。

私は母の最終章からは外れてしまったけど。
ねじれた糸は最後までほどけなかった。

でも、私が外れた事で、離れた事で、母は幸せに過ごせたんじゃないかなとも思う。

あのままこの近くにいたら、ずっとあの悲惨な汚いみじめなアパート暮らしだったかもしれない。

私たち姉妹の絶縁があったから、母達は離れた土地に去り、現在の大きなマンションに巡り合い、新たな土地での仕事や友達とも出会い・・・。

人生ってほんとに不思議だ。
いつも思う。
少し進むと必ず二手に分かれた道が立ちはだかる。
選択の人生。

選択を間違えるととんでもない方向に・・・。

あの時・・・、そしてあの時・・・。
あの時、こうすれば良かった、ああすれば良かったと後悔しても遅い。

もし、東京に出て来ていなかったら、今頃私はどうしていたんだろう。
プログラマーの仕事を続けていたらどうしていたんだろう。
ディスプレイの仕事を続けていたら・・・。
結婚していなかったら・・・。
子供を産んでいなかったら・・・。
このマンションに引っ越していなかったら・・・。
母達をこちらに呼んでいなかったら・・・。

後悔しても遅いのだ。
でもどうしても後悔が襲ってくる。
いつまでも、いつまでも・・・。



月曜日, 10月 24, 2016

後悔の嵐は止まない。。。

母の死去から2週間が過ぎた。
2週間・・・。
まだたったの2週間か。
ものすごく長い時間が過ぎた様だけど。

何だかぽっかり穴が開いた感じだ。

もう二度と逢えないのかと思うととてつもなく淋しい。

仕事先の今年の春からの激変とこの半年の出向が無かったら、もう少し時間と心の余裕もあったのに・・・。

忙しさと疲労の中、母への気持ちが遠のいていた。
足腰もかなり弱っていたと聞いていたから、もう、あまり逢えないのかなとも思っていた。

母の日のプレゼントを上げようと思いながら気がついたら過ぎてしまっていて・・・。
敬老の日に・・・とも思いながら、また過ぎてしまい、じゃあ、12月の誕生日に・・・と思っていたら・・・。

母はメールはできないから電話するしかないのだけど、電話はとにかく苦手なので、結局しないまま・・・。

病院へのお見舞いも入院して一週間後に一回だけ。
てっきり、元気に退院するのかと確信していた。
もっと行くべきだった。
後悔、後悔、後悔ばかり。

亡くなる前々日の夜、旦那に「明日一緒にお見舞いに行かない?」と言おうとしたが・・・。
亡くなる前日の夜、仕事帰りにお見舞いに行こうかとかなり迷いながら、疲れに任せて行かなかった。
超後悔。
行けば良かった。

どうして、どうしてと後悔ばかり。

あー、後悔。
もう逢う事はできないのだ・・・。


金曜日, 10月 21, 2016

悲しみと後悔の嵐

母が亡くなってから今日で12日目。
葬儀を終えて六日目。

少しづつ悲しみは収まりつつあるかと思ってもふと気付くと涙ぐんでいる。
母の姿を思い出しては涙ぐむ。
初老のご婦人を見ると母の姿が重なって泣けてくる。
やっぱりまだまだ悲しさは終わらない。

そして、さまざまな母への後悔の念が後から後から襲いかかって来る。

いつかこんな日が来るとは思っていたけど、こんなに突然やって来るとは思いもしなかった。

すでに高齢ではあったけど、病気らしい病気もしないで元気だったから。
本人もすごく健康には気を使っていたし・・・。

シルバー人材センターでの介護施設のお掃除の仕事も入院する二日までしていたらしいし。
ゴスペルの習いごとでは、もうすぐ発表会で、ソロで歌う箇所があったらしく、一生懸命練習していたとの事だったし。
童謡クラブでは仲良しがたくさんいて、いつもおしゃれして出掛けてたらしいし。

ただ、ちょっと、最近足がよたよたしてたけど。

最後の最後があまりにもかわいそう。
軽い気持ちで行った病院で、まさか激痛に苦しみながらそのまま死んでいくなんて・・・。
心の準備も何もなくのたうちまわりながら死んでいくなんて。

姉や妹に比べて母への距離が遠かった私。
二人きりになると沈黙が・・・。
何を話せば良いのか・・・。
だから、電話だともっと話す事はなく・・・。

「あんたが電話してくるのはいつもお金のいる時だけなんだから。」
そういつも言われてた。

入院する前までは幸せだった母。

今年の春だったか、私が母にとっていつが一番幸せだったのか尋ねた時、
「今が一番幸せたい。」と満足そうに言ってたのが思い出される。

もっともっと長生きできるはずだったのになー。


日曜日, 10月 16, 2016

告別式と9と悲しみ

当初の予定では告別式は朝9時からだったのだけど、あのキャンセル騒ぎで、会場が変わり、時間も12時からに変更になっていた。
親族は11時に集合ではあったけど、朝9時からなら、さらにその前の8時に集合なわけで、それだったらかなりきつかったと思う。

お通夜ではかなり遅い時間まで飲んでいたから、みんな睡眠不足だろうし、飲みすぎた人はその上二日酔いだったはずだから。

旦那の車で、会場には集合時間ぎりぎりに到着した。

会場はこじんまりしていて、お花も十分だったし、人数的にもちょうど良かった。
思っていたものよりかなり良い会場だった。

一応、飾るお花は、喪主から、私達娘から、孫一同、親戚一同などからだったが、前日旦那の提案で、旦那のお父さん、二人のお姉さん、旦那本人からのお花を出してもらった事が幸いだった。
それが無かったらちょっと淋しかったかも。

その上、私の勤め先から三つも大きめのお花が届いていて、それも功を奏した。
弔電はあると思うけど、お花は無理かもと言われていたのでかなり驚いた。
パートながら組合費は取られているので、当然ともいえるけど、元々の所属会社からと出向先の会社から、そして組合からと三つも送られてすごく嬉しかった。

弔電も5通も。
事務的なんだろうけど、重なった弔電がたくさん置かれている光景は身内として嬉しいものだ。
有難いと思った。
これからも頑張って働かなきゃと思う。

そんなお花に囲まれ、お坊さんのお経が響く中、最後に棺の中にみんなでお花をたくさん入れて、棺の窓を閉じる・・・。
さようなら。

火葬場に運ばれ、ついに火葬になったのだけど、燃やす箇所の番号が9番だったので、たまたまではあるだろうけど、びっくりした。

10月9日に亡くなり、火葬の番号が9番、誕生日が12月9日と何故だか9が続く。

苦労続きの母だったけど、最後まで9が付きまとう。

火葬された直後、娘である私達三姉妹だけが呼ばれ、寝た状態で燃やされたままの骨を確認する。
かなりリアルだった。
もう母の肉体は無いのだと確信した。
本当に本当にこれで、お別れだ。

その後、私達含め親戚たち全員で骨壷に長い箸で骨を入れていき、その後、担当者が手順よく全ての骨を骨壷に入れた。

81歳という年齢で入れ歯でもなく、燃やされてもこのように歯が残っている方は珍しいとか。
その上、骨がかなりしっかりしていて、骨壷いっぱいになる方もかなり珍しいのだとか。
喉仏もしっかりしていたし・・・。
やっぱり、死ぬような段階ではなかったと思う。
もっともっと長生きできたはずだ。

母だって、まさかこれで二度と家に帰れないなどと思ってもみなかったと思うと悲しくて悔しくて。

悔やんでも悔やみきれない母の死。
悔やんでももう戻らない。

告別式が終わり、母の骨と共に姉の家に戻った。
姉妹のわだかまりはなくなっていた。

これから、お墓を探さなければならない。

母の故郷に母が入れるお墓はあるようだが、いかんせん遠すぎる。
近い方が、いつでもお参りに行けるのだから、近いところが見つかると良いな。

今時はどこのお墓も入れてもらうには抽選なのだと言うから、大変そうだ。
運よく見つかると良いけど。
私達も母と同様、くじ運が悪いからどうだろう・・・。

ふとした瞬間に母の姿や表情が目に浮かぶ。
これから、悲しみがあとからあとから波の様に追って来るのだろうな。

毎朝、出勤時にイヤホンで音楽を聞いていたけれど、しばらくは聞けそうにない。


お通夜

納棺された翌日、姉の自宅マンションでのお通夜に旦那と長男、長女を連れて電車で向かった。

夕暮れの中、最寄駅からそのマンションまでの長い道のりをとぼとぼ歩く。
かなりの距離だ。
うっすらと暗い夜空に果てしなく長い長い龍のようなうろこ雲が流れていた。

足腰が弱っていた母はこの長い道のりを何かの度にとぼとぼと歩いていたのだろうなー。

旦那は何度か我が家に遊びに来た母を車で送ったりしていたので、姉の家には行った事があるが私が行くのは初めてだった。

ピンポーン・・・。

「どうぞ。」との姉の声。
インターフォン越しにわいわいがやがやと親戚たちのにぎやかな声が漏れ聞こえてきた。

緊張の面持ちの中、部屋に入る。

リビングルームに母の兄弟姉妹の子供達、要するにいとこたちとその子供達がたくさんすでに集まっていた。

この親戚たちと会うのも母の一番上の兄のお葬式でだったか、かなり久々だった。

「お前も老けたなー。」と言われ、月日の流れを感じる。
そのいとこたちもみんな老けていた。

リビングルームの角の方に棺が置かれていて、中を覗き込む。
その中の母の顔は、病院にお見舞いに行った時のやせ細ってしわしわだった顔とは全く違い、綺麗にしわが伸ばされ、若々しくなっていた。

ちょっと、伸ばし過ぎで、普段の母の表情とは少し違っていたけれど、とても美しい顔になっていた。
やっぱり、連れて帰ってきて正解だったし、納棺師に綺麗にしてもらって本当に良かった。

宗教心もないし、一回のお布施が15万円だと言うので、お通夜にお坊さんは呼ばず、みんなで母の話をして泣いたり笑ったりした。
それで良いと思った。
母が近くで笑っている様な気がした。
母からすると娘達、かわいい孫達、可愛がった甥や姪、その子供たちの賑やかな声に囲まれて良かったのだと・・・。

みんなべろんべろんに酔っ払い、母のお通夜が終わった。

納棺までの話

母が9日の早朝に亡くなり、駆けつけた後、担当医がやってきて、
「何が原因なのかわからないので、死亡診断書には老衰と書いて良いでしょうか?」と言う。

老衰?

入院する二日前までシルバー人材センターでのお掃除の仕事をしていたと言う母。
このところリウマチっぽかったと言う母がめずらしく痛みを訴えたので、通院していた病院に行ってみたのが始まりだった。

入院するほどでもないがどうしますか?と最初は言われたらしいが、早くその痛みが治ればと軽い気持ちで姉が入院させたらしい。
しかし、その翌日の漢方薬の投与から容体が激変した。
体中に赤い発疹が出て、激痛が体中に走り、口の中の粘膜はただれ、口の中が血だらけになり、血が固まって口が開かないほどだったと言う。
舌の先が真っ白になり、何も口から受け付けられなくなり・・・。
3週間、何も食べられないまま、のたうちまわり、激痛のあまり叫びながら、死亡した。

我慢強い性格がたたって、看護師の扱いも悪く、医師の扱いも最悪だった。
最悪の看護師たち、最悪の医師たち、最悪の病院。
軽視され・・・、運が悪かった・・・。
でも、それで、人間って死んでしまうのだ。
私も少しの間だったが救急救命センターに勤めていたが、看護師や医師とは本当に恐ろしい職業だなと改めて思う。


霊安室に運ばれる前、私がたまたま持っていたファンデーションや口紅で死に化粧をして・・・。
そしてその後、病院の地下に常駐している葬儀屋と打ち合わせをする事に・・・。

その日は葬儀屋に言われるままに割安だと言う区の会場で、通夜と告別式をやる事に決めた。

お通夜までの間は通常、保存のために病院の地下にある霊安室から冷蔵庫の様な所に移されて保管されると言う。
私は保存状態の為にもかわいそうだけどそれで仕方がないと主張したのだけど、妹がどうしても住んでいた自宅マンションに連れ帰りたいと言う。

自宅に入る時は大丈夫だけれど、棺に入れて自宅を出る時に2メートルある棺がエレベーターに入らなければ、階段を使うしかないそうだけど・・・。
まだ、マンションが2階だから、葬儀屋の二人と誰かでおろす事は可能だと言われ・・・。

妹は末っ子で母とは一番仲が良かったし、入院中も毎日お見舞いに行っていたわけで、妹の言う通り、自宅に移す事に決めた。

その夜、姉が通夜は自宅でやりたいので、通夜だけキャンセルで、告別式はそのままで・・・とその葬儀屋の担当者に電話で伝えていたはずだったのだけど・・・。

翌日の11時に最終打ち合わせで、最終的な事を詰めようとしていた私達だったが・・・。

なんか、話がかみ合わない???

かみ合わないまま、話していると、
「えっ?両日ともキャンセルじゃなかったんですか?」と葬儀屋のまさかのお言葉。

「はっ?」びっくりして一瞬絶句する姉。
「昨日も申し上げた通り、通夜は自宅でやり、告別式は昨日の打ち合わせ通りでお願いしたいと言いましたよね。」
「要は、通夜の一日をキャンセルするだけで、告別式は予約したいと言う事で・・・。」

「え~っっっ?もうキャンセルしちゃったので・・・・。」と言いながら慌てふためく担当者・・・。

電話で確かめていたが、申し訳なさそうに、
「もう、他の予約が入っているので、無理です。通夜と告別式は通常二日セットなので、キャンセルと言う事はどちらもだと思いまして・・・。
そんな話、聞いてないし・・・、最初からセットだって言えよなー。

そんなこんなで、改めて式場を探してもらい、私の職場にも式場の変更を慌ててメールで伝えた。

母の死亡の当日と翌日まで霊安室に置いておき、その翌日午後に自宅マンションに運んだ。
到着後の翌日、葬儀屋がドライアイスを換えに来てくれて、その翌日に納棺師に綺麗にしてもらい納棺。

私は仕事で行かれなかったけれど、納棺の際、お気に入りの衣類や写真などを入れて納めたと妹からメールが入った。
私があげたラベンダーのアルパカのセーターも入れてもらった。

いろいろな事でずっと疎遠になっていた妹とのメールのやり取りが始まった・・・。





日曜日, 10月 09, 2016

我が母、逝去!後悔さきにたたず、そして、弱り目に祟り目なのだ!!!

今日は仕事先の重要なセールで、しかも日曜日。
気合いを入れて、いつものように5時半に起きてシャワーを浴びていた。

寝ているはずのだんなが、風呂場のドアの向こうで何か叫んでいる。

「なぁに?」シャワーを止めて聞き返す。
「今、電話があって・・・。」
「・・・・・。」

う、うそでしょ?
まさか・・・。
母の容体が急変したとの姉からの電話だった。

足早に駅へと向かっていたが、その途中で携帯電話に電話が入る。
「今どこ?亡くなったって。」
慌てて、大通りに出てタクシーを捕まえた。

「○○の○○大学病院に行って下さい。」
私の言う病院名をナビに入力しようとする運転手だったが、大学のだの濁点が入れられない様子。
「その病院の住所わかりますか?」そう聞いてくる。
旦那に電話して行き方を聞き、運転手に教える。
やっと着いたかと思えば、その病院ではなく、系列の研究所だった。
「こんなとこじゃありませんよ。大通り沿いのはずですけど。」

どしゃ降りの中、それでもどうにか着いたが、母はすでにもう・・・。

二週間前にお見舞いした時、かなり痛がってはいたけど、死ぬ病気ではないと思ってた。
てっきり復活するかと・・・。

少し良くなったら転院するとも聞いていたので、転院してからまたお見舞いに行けば良いかと・・・。

おとといだったか?
母が夢に出て来た。
元気そうででうれしそうに笑ってて、何か会話したのだけど・・・。
思い出せない。

昨日の夜、仕事の帰りにお見舞いに行こうかと思っていた・・・。
疲れていたし、足が痛くて、二子玉川の駅の時点で時間はもう7時をまわっていたのであきらめた。
その時間から、電車に乗って行ったとして、8時までの面会時間にだといくらもないしなぁ・・・とか・・・。
同室の人に迷惑かなぁとか・・・。

今さらだけど、最後に行っとくべきだった。
行けば良かった。。。
会話ができたかどうかはわからないけど、まだ息をしていたはずだ。

82歳だと思っていたが、12月の誕生日でだった。
81歳で死ぬとは・・・。

もっと長生きかと思ってた・・・。

そんな夜、脳梗塞で倒れて入院しているだんなのお父さんのお見舞いがてら観光に行っていた息子からの電話・・・。
「観光先でお金を盗まれた。」と・・・。

弱り目に祟り目だ。